多摩川のほとりからあなたを想って

言ってなかったかもしれないけど、私、結婚するんだ。

ミチが独り言みたいに呟いたのは夏が終わる頃だった。

僕は何にも答えなかったけれど、内心で、言ってなかったかもしれないなんて嘘だ、と思っていた。僕はそんなこと、まず間違いなく聞いてないし、なにより、彼女は自分の結婚報告を、言ったかどうかわからないような、間の抜けた人間ではないと僕はわかっていた。

彼女はいつも決まって一番大事なことは口からすべり落とすように言った。僕に聞こえないような声で、でもしっかりと僕の耳に届いているとわかって。

大学を辞めたときも、風俗で働いていると僕に告げたときも、僕らが別れたときも。

僕はいつだって彼女の意思を尊重してきたつもりだし、そもそも、僕がミチの気を使ういわれはない。だから、彼女が他人事のように重要なことを呟くとき、僕はきまって薄い反応をするか、黙っていた。しかし、耳だけは彼女の言葉を取りこぼさないように意識を集中させていた。

彼女は相良実知子という90年代アイドルのような自分のフルネームを気に入らないと言う。だから、神隠しにあったように「子」という字をどこかへ追いやって、周囲に「ミチ」と呼ぶよう伝えていた。僕はミチをミチと呼ぶことがなんとなく嫌になるときがあって、たまに彼女の後頭部へ向かって、声を出さず「実知子」と呼びかけた。そうすると、ミチの「子」の部分がひょっこり顔を出して、振り返ってくれるような気がしていた。

僕とミチは元々付き合っていて、別れた。それはミチとの関係が終わったというわけではなくて、僕らは僕の狭いアパートの一室で今でも一緒に暮らしている。

だから、僕はミチに「誰と?」って聞きたかった。「どこの、どんな表情した、どうやって生きてきた、なんの職業の、どいつと結婚するんだ?」とミチに詰め寄りたかった。

それをしなかったのは、僕が彼女の(あるいは僕たちの)、将来について言及することを恐れたからだ。冷静になってしまえば僕らは離れざるを得ない。

僕らが住むアパートは多摩川のすぐ側にある。越してきたときは多摩川が氾濫したら一瞬で飲み込まれてしまうと思ったが、不動産屋のハゲを必死に隠そうと苦心した結果、全ての髪を上向きに撫で付けたおじさんによると50年ほど前に一度氾濫したきりで、それからは安定しているらしい。おじさんは尋常じゃない量の汗を額に流しながら、「大丈夫ですよ、安心安心」と言っていた。