すごく昔の話(昔に書いたやつ)

  イクチオステガは悩んでいた。 

  生命とは海で生まれたものであり、彼の父も祖父も魚として、水の中で生命を全うした。彼らは海の生態系のトップであり、なに不自由なく生きた。 

  父が死んだ時、彼は新しい世界を見たいと望んだ。強く望んだ。すると、水をかくことで精一杯だったヒレが地面を押す足になり、肺で呼吸をすることができるようになった。 

  息というのは不思議だと彼は思う。空気を吸うと肺が満たされ、それが自分の生命を維持するのだ。自らの意思で息を吸ったり止めたりできる。エラを使っていた頃はこんな感覚はなかった。 

  しかし、彼は地上で生きることのできる体を手に入れた今でも、水の中が恋しかった。 

自ら望んだことなのに、一歩先は数キロ先に感じ、明日の自分なんて見えなかった。 

  涙が出ることを知って、たくさん泣いた。 

  涙は地面に溶け出し、消える。それを繰り返して長い時間が経ち、前足の麓に水たまりができた。 

  月明かりの元で獣にも魚にもなりそこなった姿がこっちを向いて嗚咽を漏らしているのがなんだか滑稽で笑える。 

  イクチオステガは思った。 

  あぁ、オレは誰でもないんだ。 


  彼は息を止めた。自分の意思で。 

  水をかく為ではない足を必死に蹴る。 

  もう、涙が出ているのかもわからなかった。 

  そして、海の深い深いところまで潜っていった。