シンナー

空気の中を波紋が走って揺れる。振動が伝わって肌から体内に入り込み、胸の奥の熱っぽいところを打ち鳴らす。小刻みに震える音と、抑揚のある音が混じり、音楽が出来ていた。人々は酔っ払ったように音に乗り、恍惚とした顔を演奏者に向ける。
JR神戸線の高架下、大阪駅前の信号のすぐ横に、男が露店を開くかのように機材と男の名前とツイッターのアカウントが入った立て看板を広げていた。路上ライブだ。
大阪は路上ライブをする者が多く、警察の取り締まりも厳しかったが、それでも路上ライブはなくならなかった。人々は音楽に飢え、音楽を渇望していたのだ。夜が来ると共に演奏者は現れ、その周りには人だかりができた。
その男はベースを叩いていた。鋭いスラップサウンドが冬の乾燥した空気を刺し、地に落ちた低音が足元を走り抜ける。
赤信号で立ち止まった人がその音色につられ、男の方を見る。オレもそのひとりだった。
ベースを弾いている強面の男はゴツいピアスで耳たぶに大きな穴を開けているが、誰もそんなところは見ていない。奏でるものが彼の顔であり、彼の全てだった。
スラップが終わると、男はビールを一口飲み、今度は零れた音色を拾い集めるかのように弦を指で弾き始めた。音は男の体を回り、指先から生まれていた。聞き馴染みのない、しかし親しみやすいフレーズがオレの体に溶けだして消えていく。周囲を見回すと、目を閉じる者、体を音に合わせて揺らす者、男の指先を目で追う者、様々だった。
信号が青になった。だめだ。オレは過去を振り払うように歩き出す。
風が吹き、ベースの音が止んだ。拍手。
指笛を鳴らすものまでいる。人々は完全に狂っている。オレはもうやめたんだ。ああはなりたくない。
車と街灯と電車と、光が揺れて、広がり、オレを射す。眩しさに顔を逸らして振り向くと路上ライブは近いような、いや、遠いような。
オレは前を向き、再び歩き出す。振り払ったはずの音色は頭の中をずっと侵し続けている。
これはいつ止むのだろうか。泣き出しそうになりながら家路へと急いだ。
大阪の夜はどこか甘い匂いがした。

淀屋橋にて

JR大阪駅の改札を出ると、大勢の人が地面を埋め尽くすかのように歩いていた。若い男女、サラリーマン、外国人。行き交う人々を横目に見る。皆、それぞれに違う格好をしていて、スーツの上にコートを羽織っていたり、短いスカートを穿いていたり、山に行く時みたいな帽子を被っている。
待ち合わせ場所のbookstudioの前を見るとまだ誰も来ていない。時計を見ると二時三十分を少し過ぎたところだった。約束は三時だ。オレは煙草を一本吸い、bookstudioに入って棚をしばらく物色し白痴を買った。
外に出ると伏見さんがスマートフォンを見ながら立っていた。
「お疲れ様です」
オレが声をかけると
「お疲れ様、ロッカーみたいな髪やな」と伏見さんはオレの頭を見て言った。
お疲れ様というのはオレたちのようなバイト仲間がアルバイト終わりなどに相手を労うために言う言葉だったが、今やおはようやこんにちはのような、一種の挨拶のようになっている。
「皆さん、まだ来てませんね」
「そやね、平野さん三十分くらい遅れるらしいで」
伏見さんはオレと同じ学年の二十歳だ。体格がよく、落ち着いた雰囲気の彼はそれ以上の年齢に見える。オレより先にアルバイトで働いていた彼にオレは敬語を使い、伏見さんと呼ぶ。
伏見さんはスマートフォンを着ていた灰色のダウンジャケットのポケットにしまうと、腹をさすり出した。
「どうしたんですか?」と俺が尋ねると
「いやさ、昼に食い過ぎて」
「何食べたんですか?」
「天津カレーチャーハン」
雑多な料理を言葉で混ぜ合わせたみたいだなと思っていると、歩行者の向こうから声が上がった。

淡い 5

電車に二人で乗って、しばらく揺られ、乗り換えてまた揺られる。その間、ふたりに会話はなかった。黙っていると、時間が止まっているような感覚がする。電車に乗れば体を動かさずとも目的地に着く。御田はそれが自分の老いを止めているように感じるのだ。このままずっと電車に乗っていると、御田は一生19歳のままだろう。
駅に着いて、向井と別れた。ひとりになり、また次の電車に乗り換える。御田は何度も乗り換えて家と大学とを行き来するのだ。御田の老いが再び止まる。
電車の中はそれほど混んでいなくて御田の前にはおじさんや大学生風のカップルが座っている。その奥には闇に浮かぶ、星空のような光が窓の中を流れていく。その光と車内の人達に視線を行ったり来たりさせながら、御田は向井のことをぼんやりと考えた。少し、酔っているかもしれない。
そこからまた、御田は向井と一緒に過ごすようになった。御田が喫煙所で煙草を吸っていると示し合わせたように向井が現れて隣で煙草を吸った。大学の校舎の端にある喫煙所はいつも人が多く、頭上には雲が降りてきたかのような靄ができた。御田と向井は「屋内に喫煙所が出来れば」とか「単位が取れない」とか「煙草やめないと」とか言い合った。
「煙って不思議だよね」向井が言った。「うん」「煙草の煙ならいつまででも見ていられる自信あるよ」各々の口から吐き出された煙を見た煙は姿を何度も変え、空気中を漂った。煙に形はない。決まった形がないからこそ、美しいものもあるのだ。隣を見ると向井が何度も煙を吐き出しては見ていた。冷たい冬に煙を吹きかけて温めようとしているみたいだと御田は思った。

淡い 4

一年生のとき、御田は他の友達と同じように、向井に必要以上に干渉しないようにしていた。大学にいるとき長い時間一緒にいたが、向井は御田の入っていないサークルに所属しているし御田の知らない友達が向井にはたくさんいる。向井が女の子だということもあったが、それよりも友達の距離感というものが御田の中では割と遠い。必要なときは自ら敬遠してきた‟女の子扱い”というやつもした。女の子が苦手でも御田は向井を女友達として見ていた。女として認識することで向井に距離を置いていた。そこから、恋愛に発展することは全く考えていなかった。そんな御田の考えが向井にも伝わったのか、一年生の夏終わり、向井に彼氏ができたことをきっかけにふたりはパタリと疎遠になった。

寒さが厳しく、夜が深々と頭を垂らしている。御田は十九歳で季節は冬だった。御田は友達と酒を飲んだ後、電車のホームを歩いている。夜風が体に触れると胸がドキリとした。隣には向井がいる。帰る道でばったり会ったのだ。向井も飲んだ帰りらしく顔が、ほんのりとピンク色をしている。別段、なにかあったわけではないのに御田は向井に気まずさに似たようなものを感じていた。「なんか、久しぶりだよね」向井が口を開いた。「そうだな」となんてこともないようなフリをして御田も返した。いつも酔っていれば誰とでもスラスラと話せるのに、口が絡まったように言葉が出ない。「御田とはよく一緒にいたのにね、こわいもんだね」「うん」「御田、どうしたの?酔ってる?」向井は笑っている。御田は確かに酔っぱらっていた。「でもさ、やっぱり向井に彼氏ができたのが大きかったよな」言ってから、しまったと御田は思った。「そうだよね」「彼氏とはうまくやってるの?」しかし、一度話題を見つけると滑ったように舌は回る。「それなんだけど、別れちゃったんだよね」向井はおどけたように言った。御田は彼氏の話題に触れたことを後悔しながらも、内心少しほっとしている自分に気づいた。

淡い 3

それから、御田は恋愛をしなくなった。人は恐らく、好意を言葉にしたり聞いたりすると恋が生まれるようであるが、御田は頭から、恋とか愛という言葉が抜け落ちたかのようだった。稀に人から好意を向けられることはあったがそれを返す気にはなれず、付き合うが面倒くさくなって別れるということを繰り返した。興味のない人間と一緒にいることほど苦痛なことはない。高校とは割と便利なところで、関係が切れた相手とは関わろうとしなければ関わらなくて済んだ。何度かそんなことがあったが、連絡先を消すだけで人間関係が解消されるように思えた。
恋愛を忘れた御田は友情に熱心になった。燃え上がったり、落ち込んだりしなくてはいけない恋愛に比べて、何も考えなくていい友情は楽だった。何人か、気の置けない友達もできた。

そのまま、御田は大学生になる。地方大学の国文科に進んだ。大学でも御田にはすぐ、何人か友達ができた。その中のひとりが向井だ。向井と御田は多くの時間を共にしていたが、恋愛めいたことを言わず、そういう雰囲気を出さない向井に御田は安心した。御田にとって、向井は出会ったことのないタイプの女の子だった。向井は一浪したからか、どんなことにしても自分の知識がないことを恥じていた。向井は幼い頃から本を読むことで生きてきた女の子で、知識だけはどれだけあっても困らないと考えていたのだ。知識なんて、この世には情報が砂漠の砂のようにあるから自分には少ないと考えているだけで向井にはいろんな知識があるだろうと御田は考えるが、向井の知識欲は留まるところを知らなかった。いつも向井は「知らないことばかりだ」と大学の授業のノートや社会の仕組みや煙草の煙や旅行中の景色やその他もたくさんのものを見たときに言った。そんな向井を見て御田も自分の知るところではない存在に触れ、理解しようと努めるのだった。

 

 

淡い 2

人間というのは不思議な生き物だ。相手のことを知り尽くしているわけではないのに、印象だけで物を言う。それが当たっていても外れていても言われた相手は喜んだり、悲しんだりする。見当違いでも、プラスなことを人に言うやつは気に入られる。御田もよく人に「御田ってモテそうだよな」と言われるが、御田自身はあまりモテない。しかし、そう言われると嬉しい。不思議だ。

向井は人を褒めることに関して、プロだ。御田が人の良いところを一つあげる内に向井は十個あげる。しかも、男女問わずフランクに接する向井はかなりモテた。褒めてくれて、周囲から認められていて、空気が読める人間は重宝される。それなのに向井が「私はコミュニケーションを取るのが下手だ」と言うから御田は怪訝な顔をした。「上手いじゃん」と御田が言うと、いつも「そんなことはない」の一点張りで認めようとしない。向井に言わせると「私は私に都合のいい人を選んでいるだけだ」という。それは人付き合いが上手いってことじゃないのかと御田は思う。

前述した通り、御田はモテない。どちらかと言えば昔から女子という存在が苦手だ。御田は決して、不潔な格好をしてる訳でも、とてもブスであるという訳でもなかった。これも前に述べた通り、「モテそうだよな」とは言われるのだ。しかし、この言葉はどうやら現にモテているやつには言われないようだ。

初めて女の子と付き合った時、御田は中学生だった。御田はウブだったのでその子とは手も繋ぐことなく別れてしまった。次の彼女は高校の時にできた。しかし、御田は好きだとかそういうことを言われるたびに皮膚の下がゾワッとするのを感じた。なんで、人は愛を伝えようとするんだろう。見えないものを言葉とか文字にしてあたかも見えるようにしてるだけではないのだろうか。結局は存在しないんじゃないのか。御田は身震いしながらその子と別れた。

 

淡い

透明のグラスのような空気の中に白い煙が上がるところを御田は黙って見ていた。御田の口から吐き出された煙はゆらゆら揺れたあと、冷たい風に流されて、冬の空気に染み込んだ。彼は見えなくなった煙を目で追い続けたが、そこには青い空が満ちているだけで空気は白くなったりはしない。しかし、御田はそこに煙草の煙がまだあることを信じていた。煙が見えなくとも、こうして空気と自分が煙を介して繋がっていると思うと御田は満足した。

御田が呆けた顔でいると、喫煙所に向井がやって来た。彼女は「授業はじまるよ、はやく」と言ってチョイチョイと手招きをする。向井は御田の同期の女の子だ。同期と言っても御田は子年の二十歳、向井は亥年の二十一歳だから歳は一つ上である。
授業に向かおうと御田が煙草の火を消して立ち上がると、向井の胸くらいの高さにあった御田の顔が向井の頭を通り越した。御田は身長が百八十センチ近くある。それに対して向井は百五十センチ後半だ。二人は二十センチほどの高低差の中で会話をするが御田は向井を小さいと思ったことはない。きっと、それは身長の大きさよりも存在の大きさが重要視されているからだ。

二人は大学一年生の時、スペイン語の授業で出会った。御田がスペイン語の教室を探してフラフラしている時に同じく漂っていたのが向井だった。向井は御田と知り合った時、授業の履修について教えた御田に「御田君って親切だよね」と言った。御田はそんなことはないと思ったが親切だと言われて悪い気はしなかったので、そのままにしておいた。当たり前のように生きていても親切だと思われることがあるようだ。それから御田は向井と長く一緒にいたが自分が親切だと思うことはなかった。