無題

‪「山寺がさ、店長ぶん殴ったらしいんよ」

 藤木は咥えたタバコのフィルターを噛み潰しながら言った。俺は品出ししてたからわからんかったんやけどと続ける藤木の口端から煙が上がって僕の肩をすり抜けた。

‪ 「でも、店長の方は殴られたことには驚いていたみたいやけど、すぐにいつも通りの、あのよう分からん抜けた顔でさ、『山寺くん、レジ入って』って」

 藤木が店長の顔を真似する。驚いたような目が落ち着きを取り戻して平らになっていく。

‪「クビにしてもらえると思ってたあいつが店長に『俺をクビにしないんすか?』って訊いたら、店長さ‬『僕にそんな権利はないよ』とかなんとか抜かしたらしいねん。クソみたいな店やねんな。どんだけ人手不足やねんて」‪

 

   僕の体の80%は廃棄の弁当でできてる。残りの20%はゴミ。じゃあ、もう100%ゴミやんって君は言うやろけど、その通りやねん。あほらしくてしゃーない。僕やって死にたくてしゃあないねん。

 

正月

‪父親は卓球を始めたらしい。俺が帰ってきたとき、なんでもないって顔で‬‪「卓球はじめてん」と言っていた。‬
‪その後、兄夫婦が来たときも同じ感じで「卓球はじめたから痩せるで」って言っていたから自慢したくて堪らないのだろう。‬

そういえば父親が自身のことを、どの一人称で呼ぶのか思い出せない。たぶん、「父さん」って言ってたと思うけど俺が生まれたときからずっと「父さん」なのだろうか。

父親はいつから「父さん」なのだろう。俺からしてみればそんなことは絶対にないのだけど、父親が生まれたときから「父さん」なのかもしれない。

いい加減、父という字がゲシュタルト崩壊してよくわからなくなってきた。二つの矛みたいものが重なり合っている記号にしか見えない。

外国映画の口髭を生やして古臭いメガネをかけたおっさんのピチピチのハーフパンツ(膝が丸々出て、腿まであらわになっている)姿が父親にダブって、それが下手くそな姿勢で卓球しているところを想像して嫌になった。

俺が高校の時に履いていた膝が隠れるタイプのバスケパンツを欲しがっていたからあげよう。‪

母は変わらず、俺のために甘い栗きんとんを山のように作っていた。‬母は俺がさつまいもとか栗とかの秋っぽい甘いものの類を好きだからと(あとミカン)いつになっても大量のスイーツを作る。俺が家を出て、それに拍車がかかったようでそれはもう、いっぱい作る。俺の短い実家滞在期間のうちに全て食えと言うのだからこちらの胃袋がもたない。
‪たぶん、俺が30を過ぎても母は「あっ」と言って冷蔵庫から大きめのタッパーになみなみ入った栗きんとんを出してくるのだろう。

兄夫婦は、よくわからん。帰ってきて新年の挨拶をしてから「気をつけて」と送り出すまで彼らの顔をニ、三度しか見なかった。しかも顎の辺りを見ていたから目は一度も見なかった。だから、よくわからないし家族の話に俺の名前が出てくるたびに、これから包丁を入れられるのを待つ俎上の魚のような気分になった。兄に対しては生きていてほしいと思わないけど、死んだら嫌だとは思う。とりあえず、兄の、輩みたいなその髭はなんとかしたほうがいいと思う。

俺の方とは言うと、明日の朝6時の新幹線で関東に戻らないといけないから早く寝ないといけない。実家に帰ってくるたびに、もう帰らないかもなと思うけど、結局毎度ちゃんと帰っているから次もきっと帰るのだろう。

体が寝たくないと言っているが、いい加減寝ないとやばいので寝る。

多摩川のほとりからあなたを想って

言ってなかったかもしれないけど、私、結婚するんだ。

ミチが独り言みたいに呟いたのは夏が終わる頃だった。

僕は何にも答えなかったけれど、内心で、言ってなかったかもしれないなんて嘘だ、と思っていた。僕はそんなこと、まず間違いなく聞いてないし、なにより、彼女は自分の結婚報告を、言ったかどうかわからないような、間の抜けた人間ではないと僕はわかっていた。

彼女はいつも決まって一番大事なことは口からすべり落とすように言った。僕に聞こえないような声で、でもしっかりと僕の耳に届いているとわかって。

大学を辞めたときも、風俗で働いていると僕に告げたときも、僕らが別れたときも。

僕はいつだって彼女の意思を尊重してきたつもりだし、そもそも、僕がミチの気を使ういわれはない。だから、彼女が他人事のように重要なことを呟くとき、僕はきまって薄い反応をするか、黙っていた。しかし、耳だけは彼女の言葉を取りこぼさないように意識を集中させていた。

彼女は相良実知子という90年代アイドルのような自分のフルネームを気に入らないと言う。だから、神隠しにあったように「子」という字をどこかへ追いやって、周囲に「ミチ」と呼ぶよう伝えていた。僕はミチをミチと呼ぶことがなんとなく嫌になるときがあって、たまに彼女の後頭部へ向かって、声を出さず「実知子」と呼びかけた。そうすると、ミチの「子」の部分がひょっこり顔を出して、振り返ってくれるような気がしていた。

僕とミチは元々付き合っていて、別れた。それはミチとの関係が終わったというわけではなくて、僕らは僕の狭いアパートの一室で今でも一緒に暮らしている。

だから、僕はミチに「誰と?」って聞きたかった。「どこの、どんな表情した、どうやって生きてきた、なんの職業の、どいつと結婚するんだ?」とミチに詰め寄りたかった。

それをしなかったのは、僕が彼女の(あるいは僕たちの)、将来について言及することを恐れたからだ。冷静になってしまえば僕らは離れざるを得ない。

僕らが住むアパートは多摩川のすぐ側にある。越してきたときは多摩川が氾濫したら一瞬で飲み込まれてしまうと思ったが、不動産屋のハゲを必死に隠そうと苦心した結果、全ての髪を上向きに撫で付けたおじさんによると50年ほど前に一度氾濫したきりで、それからは安定しているらしい。おじさんは尋常じゃない量の汗を額に流しながら、「大丈夫ですよ、安心安心」と言っていた。

海に浮かぶ月

一人で入るお風呂に、前のバイトを辞めたときに貰ったクラゲをモチーフにしたおもちゃを浮かべると、心を見通せるような気がした。

時間は21時50分を回っていた。行こうと思っていたスーパーマーケットは22時に閉まる。

あぁ、今日も買い物に行けなかった。

お湯の温度を上げ過ぎて、何度も立ったり座ったりするけど、風呂場から出ようとは思わない。一人で我慢大会を続ける。

前の家にはなかったお風呂の窓から、ゆるゆると入り込んでくる涼しい風が私に現実っていうもののありがたみを伝えている。

暑いと、そうでもないの波を繰り返して寝ぼけているような気分になる。


体がまた、そうでもないになって、湯船に体を沈めた。頭がぼんやりとして、脳みそがじわじわと音を立てているような気がする。

所在なくなった右手が寂しいと言うので、右手を遊ばせてあげようとシリコンでできたクラゲのオモチャを沈める。

そういえばこのオモチャをくれた元バイト先の横井くんから連絡が来ていた。


「久しぶり。東京どう?」

クラゲのオモチャをくれたとき、横井くんは嬉しそうにオモチャの底の部分にあるボタンを押したら、クラゲが光るということを熱弁していた。

「そろそろ、慣れた?」

それと、横井くんは私のことを好きだと言っていた。

「山中さんがいなくなって、俺バイトが楽しくないんだ」

私はそんな横井くんの気持ちを知っていて、でも、何も言わなかった。


身体が限界を感じて、お風呂から上がった。

冷蔵庫から麦茶を取り出してペットボトルのままがぶ飲みする。結露するペットボトルの外側と内側の麦茶とは果たして同じ気持ちなんだろうか。

 


スマホの充電器のコードの長さに制限されて生きている。

あーぁ、横井くんと付き合っていたら、どうだっただろう。

横井くんは東京についてきてくれたかな。一緒に住んだりしていたのかな。家事がからっきしダメな私の世話を焼いてくれていただろうか。

布団に横になると、冷えた敷布団が優しくしてくれる。

私はその優しさに甘えて眠りに落ちた。

 


海の中にいるみたいだ。

真っ青な水の中に、綺麗で、かわいいクラゲたちがふよふよ浮かんでいる。

しかしクラゲを見てかわいいと思っても、私は彼らが生きているのか、死んでいるのかわからない。

愛情の伝え方がわからない。

クラゲも横井くんも同じだ。

私の中にふよふよと漂っているだけで、愛し方を教えてはくれない。

クラゲはこちらに表を向けたり、裏返ったりしている。クラゲの裏側は寂しい。


はたと、一匹のクラゲを見ると、傘になったところに横井くんの顔が映っていた。

横井くんは泣いていた。大泣きだ。鼻が赤い。泣かないでほしいと思ったが、口を開いても言葉はあぶくになるだけで、音にならない。

涙がはじけて、海の水に溶け出した。私は横井くんの涙が作った海に浮いている。

そうしていると、なんだか、彼の気持ちがわかるような気がした。


目が覚めた。

時計を見ると3時を過ぎたところだった。

ひどく喉が渇いている。

キッチンに行くと、さっき飲んだときに麦茶のペットボトルを出しっ放しにしてしまっていたことに気がついた。

一口飲んで、ペットボトルを見ると結露の一粒一粒が大きくなっている。

まるで、無数のクラゲが流した涙みたいだと思って私はそれをいつまでも眺めていた。